アーカイブ: プロダクションノート
2019年1月25日 佐々木誠 プロダクションノート1
私は、これまでいくつかマイノリティ、主に障害者を題材とした、境界線を問う内容の作品を制作してきました。
そういった作品を作っているとよく聞かれますが、私は家族に障害を持った者がいるわけではありませんし、「当事者」という意識もありません。また障害や多様性などについて研究しているわけでも、アーティストとして芸術表現をしたいわけでもありません。
私は、単なるフリーランスの映像ディレクターです。
お話をいただけば、商品のCMでも音楽のプロモーションビデオでもTVドキュメンタリーでも実験映画でも、大抵の映像制作の案件は受けさせていただいています。
受けたら自分なりにその題材を面白くさせることを考えるだけなので、作家というより職人に近い感覚で作品を作っています。
しかし、その中でも障害やマイノリティを題材とした映像作品のお話を多くいただき、作り続けているのは偶然ではないと思っています。
14年前、マイノリティとマジョリティの境界線を問う「マイノリマジョリテ・トラベル」というアートプロジェクトに誘われ、映像で参加したのが、この分野に関わったキッカケです。
参加者に障害を待つ人たちも多かったのですが、特に何も思いませんでした。普段の仕事と同様、その企画で一緒に作品制作を行う人たちと親しくなり、飲みに行く機会も多くありました。
その時期、久々に会った高校時代の友人に最近の仕事や生活について聞かれました。
「マイノリティとカテゴライズされている人たち、主に身体に障害を持つ人たちと一緒にプロジェクトを行っていて、昨日もみんなで飲みに行った」
と話すとその友人は驚いて、
「お前、よく障害者と飲みに行くな。面倒くさくない?」
と私に聞きました。
確かに、お店を決める時、入り口に段差がないかをチェックしたり、ヘルパーの方がいない場合はトイレの介助も時々しましたが、そのことを特に面倒くさいとは思いませんでした。
「でも、お前だってその場にいて頼まれたらトイレの介助くらいするだろ?」
と私が言うと、その友人は、
「そりゃ手伝うけどさ、そもそもまずその場に行かないよ」
と答えました。
一応お伝えしますが、その友人は昔からとても優しい良い奴です。
でも、意識が違うんだな、と。
この時はじめて彼に違和感を感じました。
「障害」は私にとって、その個人と付き合う時、意味はありません。
「障害」があろうとなかろうと自分にとって面白い人と友だち付き合いしたり、何か一緒に制作したいだけです。
私はいわゆる健常者ですが、私のことを面白いと思う人は付き合ってくれるだろうし、面白くないと思ったら付き合わないでしょう。
単純なことです。
しかし、その彼との対話で「障害」を持っているというのは、コミュニケーションにおいて文字通り「障害」になり得るのだ、ということを実感しました。
その時感じた「違和感」は、今でも私の中で拭えません。
だから、その違和感を浮き彫りにした作品を作る機会に恵まれ、私なりの方法で境界線を問うことを続けている気がします。
2017年9月25日 田中みゆき プロダクションノート1
この映画には、前作がある。映画『インナーヴィジョン』は、生まれながらに全盲の加藤が、友人であり映画監督の佐々木の手引きにより映画の現場を体験し、脚本を書き、冒頭のナレーションを収録したところで終わる。それを見て、「これは視覚障害の映画というより、映画をつくる行為を見えないというひとつの“視点”から検証する映画だ」と感じた。見えないからこそ、映像や物語、美学の根本を問うような質問も飛び出す。見えていると敢えて俎上に載らないことに着目することで、「つくる」ことの本質を問うことができる題材がそこにあった。そして、その先に待ち受ける「映像化」というプロセスに挑むことで、さらに見える/見えないを超えた世界が現前させられるのではないかと考え、続編であり新作でもある本作品の制作を企画した。
見えない加藤が、本作品に収録される自身の短編映画を見ることはない。しかし、視覚的要素だけが映画を“観る”方法なのだろうか。映画は加藤の監督のもと、見えるスタッフが足掻きながら彼の思い描く世界をさまざまな方法で映像化し、観客の前に差し出される。それらが彼の頭の中にある“イメージ”をそのまま映しているか、視覚的に確かめる術はない。しかし彼は、視覚を使わずとも、誰よりもその映画について知る者でありうるのではないだろうか。
視覚は、時にその奥へと思考を巡らせることを邪魔する。見えていることだけが世界を掴む方法ではないのに、視覚があるとつい見えるものに惑わされてしまう。観客は、私たちと共に見える世界と見えない世界を行き来しながら、その間にあるものを手繰り寄せていくことになる。それが、映画『ナイトクルージング』である。