コメント・寄稿

聴覚で何かを作り上げる。
そこにはストーリーがあり、山や谷があり、緊張と緩和がある。
これは音楽だと思った

坂本龍一(音楽家)

 

加藤秀幸監督が作る「ゴーストヴィジョン」への出演オファーは、
声の演技で勝負して来た自分にとってこの上ない喜びでした
見えない監督が、スタッフ達と試行錯誤を繰り返し映画製作にチャレンジする姿は、
見えているつもりで見えていなかった我々に、大切な何かを教えてくれている気がしてならない

山寺宏一(声優/俳優)

 

最初から最後まで驚愕の連続。
単なる障害者逆差別映画でも、視聴覚の実験映画でもない。
極端なまでのリアルがむせ返るほどのリアリティーショー。

菊地成孔(音楽家/ 文筆家/ 映画批評)

 

日本語話者である私(たち)はふつう、日本語が通じない人を「何かが欠けた人」だとは思わない。単に別の言語を使う人として、経験上、ある程度想像できる。しかし、同じ視覚を持たない人(視覚障害者)については、つい「視覚の欠けている人」と思いがちである。それを単に、視覚を偏重して生きている私(たち)とは別の感覚を持つ人、として想像するだけで、こんなにも世界が広がる。共感できない世界こそおもしろい。

能町みね子(エッセイスト/漫画家)

 

我々みたいに視覚に頼って同じ映画を観ているつもりの人たち同士だって、話しててそれ同じ映画?みたいなこともあるし、もっと言えば、観ているものは本質的に違う。ましてそれをどう咀嚼するかについては絶対に違うわけで、全部は一致はしないんだけど、すり合わせていって、ここはわかった気がする、けどここはわからないとわかる。そんなもんじゃない人間同士?という、そういう原理的なところまで描いている。

ライムスター宇多丸(ラッパー/ラジオパーソナリティー)
※TBSラジオ「アフター6ジャンクション」より

 

夢みること、もがくこと、生きること、すべての意味が自分の中で変わってゆきました。

穂村弘(歌人)

 

これは希望を与えてくれる映画だ。とはいえ、万人にではない。
なにかしら「自分には絶対にわからないから無理だ」と思っているものを抱えている者にとって、ダイレクトに刺さることだろう。

齋藤陽道(写真家)

 

視座の交代。
これからの世界をどう体験していくのかが、僕たちには大事だ。
僕は現在、左目が見えないけれど一時期は両目が見えなかった。
結局は手術で右目視力は回復したのだが、3週間だけ両目の視力がない世界を体験出来た。
その時、いかに僕らの住む「社会」が視力情報に占められているのかが分かった。
近所のコンビニまでなら道を覚えてるだろうと家から出た瞬間に恐怖を感じた。
車の走行音があまりに大きく、そこから一歩も動けなかった。
『ナイトクルージング』でも加藤さんが車道ギリギリを歩くシーンが登場する。
僕はこの感覚を知ってるぞ!と思った。
ところが加藤さんと話すと違っていたのだ。「先天的な場合と後天的な場合で全然違うと思います。」
そうなのだ。
世界はさらに幅広く、そしてある意味で「豊か」だ
『ナイトクルージング』ではそんな世界の広がりを加藤さんが、そして加藤さんを手伝う様々な人たちが教えてくれる。教えてくれようとしてくれる。
ズレがあるかもしれない。勘違いがあるかもしれない。
その分だけ、様々な視座が重なり合い、世界は豊かになっていく。
そんな生々しい視座の交代を感じられる素晴らしい作品です!

ダースレイダー(ラッパー)

 

主演の加藤さんの常に冷静な人がらに呼応してか、カメラもまた落ち着いて丁寧に加藤さんや映画スタッフの仕事ぶりを追っている。映画作りのことなら多少は自分も知っているはずなのに、彼らの映画作りの過程から目が離せない。耳もいつもより使ったような気がする。冷静沈着な加藤さんが「興奮を抑えるのに必死だった」と告白する場面の、ストレートな感動。最初から最後までスリリングだった。

三宅唱(映画監督)

 

盲目の人たちが生きているのは闇の世界ではない。
光はないかもしれないけど、そこは情報にあふれた豊かな世界なのだ。
僕たちが知っているのとは全く違った世界、今回のような映画つくりを通して、
そんな別の世界が出会い刺激しあったら何を生み出してゆくだろう?
楽しみでしょうがない!

しりあがり寿(漫画家)

 

イメージというのは、かならずしも「視覚的」ではないかもしれない、と思っています。
たとえばそれは、夢の中の世界のように、形や色が不安定に揺れ動く、ただ「存在」としてだけある世界かもしれない、というふうに。
私は、そんな非視覚的なイメージを視覚下に実現する試みに惹かれてきました。それが私にとっての「建築をする」の意味だったと言っていいかもしれません。
この映画は、本来的に視覚的世界とは別のイメージのなかで生きてきた人が、建築以上に視覚的な世界である映画をつくる話です。
そして、主人公の、生まれつき目が見えない彼もまた、目で見ることができないイメージの視覚化ということを目指します
つまり、視覚的世界に生きている人が常識的にとらえる非視覚的世界のイメージを拒絶し、それがたとえ無理難題だとしても、非視覚的イメージそのものの視覚化を求めます。
ところが、視覚化という作業は、それがどう視覚的に捉えられるか、という逆算による検証がなければ成り立ちません。
だから、彼は、視覚健常者がどう世界を捉えているか理解しようと勉強します。
それは当然の作業だったと思います。
しかしそうすることで、映画づくりは当初の目標から微妙にずれはじめます。次第に、彼のイメージが視覚世界に侵され、滅却されていくようでもありました。
不可能なことを目指している以上、視覚世界へ回収されていくことは仕方がないことなのかもしれません。
彼はそのことを理解し、ある意味で諦め、退却し、目標を立て替えたようにも思えます。
だから、この映画づくりは成功であると同時に失敗であり、そのもやもやは、私に多くのことを考えさせてくれました。

青木淳(建築家)

 

うまれてはじめて目をつむって映画を観た。どきどきして、不安でもどかしくて、すぐに薄目を開けてしまった。視界を閉じて、想像して、息継ぎみたいに目を開けて、またつむって。暗闇を泳いでいるみたいだ、と思った。映画というのは、観るほうも作るほうも、こんなに自由でいいのだと知りました。

狗飼恭子(作家・脚本家)

 

この映画は徹頭徹尾“裏方”の映画である。光に対して闇、昼よりは夜、映画というスポットライトの陰で生きる有象無象の者たちこそがこの映画の本当の主人公である。同時に佐々木監督自らが目を閉じることで加藤監督に寄り添い、いつからかまことしやかに総合芸術と言われる“映画”というものが、誕生するかしないかの瞬間を私たちと共有しようとする。言うなれば観客もいつの間にか目を閉じて一緒に“裏方”になってしまう映画だ。そしていかにテクノロジーが進歩しようがしまいがその瞬間映画はただ単に“謎”であり夜の果てだ。だからこそ最も危険で刺激的でもあるということをこの映画に関わった全ての人が指し示すことになる。「自動運転じゃあ、つまらないぜ」荒野を走り続ける夜の旅はまだ始まったばかりである。

相澤虎之助(空族/脚本家・映画監督)

 

主演の加藤さんのキャラが強いサイボーグみたいで、目が離せない。映画ができるまでの工程を知ることができるドキュメンタリーでもある。その工程の大変さや面白さに、加藤さんが全盲であることを途中途中忘れてしまう。わたしが好きなのはオーディションするシーン。顔を見ないでどうやって判断するのだろう?今まで、私は容姿で人を判断してきたことが多いと思うのだけれど、その判断はあってたのかな?と疑問に思うようになった。上映中、観客は目が見える世界と見えない世界を行ったり来たりするゴーストになれる。

青羊(けもの/シンガーソングライター)

 

無理難題に取り組む知性たちによる「チャレンジの連打」は多方面にインスピレーションを与えるだろう。
そして最終的に完成した作品については言及は避けるが、誰もが衝撃を受けるはず
障がい者が主役なのに涙ゼロ、怒りゼロ、オモロイだけ。これは新たなステージの作品!

村上賢司(映画監督・テレビディレクター)

 

佐々木誠監督『ナイトクルージング』がいよいよ完成した。
全盲者にとってナイト(夜中)やデイ(日中)は存在するのであろうか。
厳密には存在するかもしれないが、健常者が全盲の闇を旅することとはどんな意味を持つのか。この映画は問いかける。表向きは。
しかし、佐々木監督は常にそのときの題材を通して、映像の本質を解剖してきた。
今回も映像の正体とは果たして何であるのか。イメージと実在、虚像と映像との関係性をとことん突き詰める。
これは全盲者が映画をどう捉えているかや、全盲者のための映画では決してなく、健常者と言われている我々にメスを入れる健常者のための視覚解剖映画である。
いままで誰にも見えなかった映像論である。

これは紛れもなく「デイクルージング」であった。

ヴィヴィアン佐藤(ドラァグクイーン、美術家)

 

映画『ナイトクルージング』は人と人とのどうしようもない「違い」や「わかりあえなさ」、世の中の固定観念を、対立や区別を越えて、クリエイティブへと転換させていく、映画という媒体と試行錯誤を経て。
その試みは「この映画制作自体がソーシャリー・エンゲイジド・アート」とも言えるが、ともかくただただ、そこに照射される希望と可能性に目が眩んだ。

鈴木沓子(ライター・翻訳)

 

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寄稿
「予め定めれたラストシーン」

真野勝成(脚本家)

 

「目の前にある静寂の世界を鑑賞していると、盲目にまつわる様々な幻想が頭に浮かんだ。ミルトン、ブラインド・レモン・ジェファーソン、ボルヘス、レイ・チャールズ。そんな名に促されて、類い稀なる感受性と才能のことを考えた。肉体的な目を失うと第二の目が開かれる、と人は思っている。一つの扉が閉じると、ひときわ優れた新しい扉が開く、と。」
テジュ・コール『オープン・シティ』小磯洋光訳(新潮社)

『ナイトクルージング』に対して人が持つ興味のとはこういうことではないだろうか。「視覚障害者が映画を監督する」ということが、この映画が客を呼ぶための「見世物」であることは間違いない。製作者の自覚の有無に関わらず、障害者について表現することは宿命的に差別構造と無縁ではいられない。それはタブーではないが、ポリコレ的な繊細さが高いレベルで求められるし、一方で穏当な表現に終始し障害者を感動的に描くことも感動ポルノという言葉で批判されるようになってきた。

そういう面倒な状況の中で、佐々木誠は障害者を扱った作品を独自の距離感と振る舞いで表現してきた。『INNERVISIONインナーヴィジョン』(2013)ではそのタイトルから人が連想する視覚障害者には何か特別なものが見えているのではないかという畏怖(引用したような)を逆手に取り、肝心な「見世物」は提示しないという見事な悪ふざけを見せた。佐々木誠と視覚障害者である加藤秀幸と共犯関係が相棒バディモノとしても絶妙な心地よさを与えていたと思う。

連続性を持つ『ナイトクルージング』では作品中で最大の「見世物」である「視覚障害者が監督した映画」もしっかり流れることになる。その感想は見た人それぞれの感受性に委ねられるが、ここでは『ナイトクルージング』という作品の構造について整理しておきたい。『ナイトクルージング』は視覚障害者である加藤氏が監督した映画ではなく、その加藤氏の姿を追った佐々木誠監督作品である。あえて再確認したのは「視覚障害者が映画を監督する」というテーマのうち「視覚障害が」という部分に目が行きがちだが、「映画を監督する」という部分にもかなり本質的に切り込んだ作品になっているからだ。

加藤秀幸は映画監督に関しては初心者である。素人ともいえるだろう。「観る」ことを前提に制作される映画を「観たことがない」加藤氏が監督するために、視覚という感覚そのものを一からとらえ直していく姿がかなり時間を割いて描かれる。それは興味深く、感動的ともいえる。逆に前作にあった悪ふざけ感は抑えられ、生真面目な実験風ドキュメンタリーに比重が置かれているようにも見える。二人の相棒バディぶりも前作ほどではない。これは佐々木誠が加藤秀幸監督作品にスタッフとして参加している事が影響しているのかもしれない。加藤秀幸監督作品には一流の映像スタッフが結集し、全面協力する。それに対し初心者であるはずの加藤氏の振る舞いは実に堂に入っている。スタッフからの提案に対して独自の意見を返していく。その姿は僕が脚本家として現場で見てきた監督たちの姿と遜色ない。しかし、これは初心者の視覚障害者が誰でも監督しうるということではなく、加藤氏の個性、魅力に拠るものだろう。堂々たる体躯、喧嘩の武勇伝を語り、格闘ゲームも強い。加藤氏の能力に対しては「視覚障害者が映画を監督する」という宣伝ウリ文句は失礼(差別的ともいえる)なのであって、本来はただ「加藤秀幸第一回監督作品」とされるべきだろう。ただ「視覚障害者が映画を監督する」という宣伝ウリ文句がなければ制作資金も人材も集めるのが困難であることは想像に難くないし、そもそもこの企画がなければ、加藤氏が自発的に映画を監督していたかも分からない。結集したスタッフたちが通常の現場のように監督とぶつかり合えたのか、視覚障害者に対する遠慮はなかったのかという意地悪な疑問も残る。観る側も映画の評価に遠慮がないか自問すべきだろう。そしてそれは人の心の中のことなので答えは出ない。そもそも監督本人が自分の作品を「観る」ことができない。とにかく『ナイトクルージング』そのものが入り組んだ差別構造の縮図になっている。それはこの世界の真実がいつも差別的であるということを描いている証明だろう。

監督としての加藤秀幸のカリスマ性は人が視覚障害者に抱く幻想に重なる。そして彼だけに見えている世界への幻想が膨らんでいく。だが当たり前のことだが、実際に観客が観る映像は視覚障害者ではないスタッフを通して作ったものになる。但しそれは加藤監督の指示に従ったものであることも確かである。視覚障害者が監督したことで普段は見えにくい「映画を監督する」という役割の本質が浮かびあがってくる。脚本家・山田太一は監督という立場についてこう書いている。

「たしかに映画監督は撮影現場の王様であり、スタッフ、キャストの他者の側面が見えにくく、外側からは自分の力ではないところまで一人でつくったように扱われ、成功するとあれこれのリップサービスにもさらされる。自分を維持するのが大変な仕事だと思う」山田太一『月日の残像』新潮社

「映画は監督のものである」と主張した作家主義の監督たちとその信奉者によって、僕たちは「映画は監督のものである」と思いがちだ。実際そういう作家主義の「監督の映画」は存在する。しかしその影響は作家性に乏しい、職業監督にまで現場における「王権」を与えることになった。自我が肥大した監督は、作品を自分のものと思い込む。だが、多くの場合、映画は様々な才能・職能を持つ人々の共同作業だ。その当たり前のことを『ナイトクルージング』は淡々と映し出している。その上で加藤氏が監督した作品は加藤氏でなければ作れないものになっている。それがどんなものなのか?インナーヴィジョンとは?インナーヴィジョンを映画で表現することは可能なのか?インナーヴィジョン自体が存在するのか?その答えを求めた長い旅の果てに、ある意味で衝撃のラストが待っている。そこには前作にあった佐々木誠と加藤秀幸との共犯関係はない。あくまで佐々木誠の孤独な単独犯行だ。それにより『ナイトクルージング』は完全に佐々木誠という「監督の映画」になっている。『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』と共通する愉快犯の企みが見え隠れする。その企みにニヤつく人もいれば、苛立つ人もいるだろう。企み自体に気付かない人もいるかもしれない。僕にとっては前作の時点で佐々木誠には今回のラストシーンが予め見えてしまっていたのではないか…という映画監督への幻想を抱かせる映画になっている。