2017年9月25日 田中みゆき プロダクションノート1
この映画には、前作がある。映画『インナーヴィジョン』は、生まれながらに全盲の加藤が、友人であり映画監督の佐々木の手引きにより映画の現場を体験し、脚本を書き、冒頭のナレーションを収録したところで終わる。それを見て、「これは視覚障害の映画というより、映画をつくる行為を見えないというひとつの“視点”から検証する映画だ」と感じた。見えないからこそ、映像や物語、美学の根本を問うような質問も飛び出す。見えていると敢えて俎上に載らないことに着目することで、「つくる」ことの本質を問うことができる題材がそこにあった。そして、その先に待ち受ける「映像化」というプロセスに挑むことで、さらに見える/見えないを超えた世界が現前させられるのではないかと考え、続編であり新作でもある本作品の制作を企画した。
見えない加藤が、本作品に収録される自身の短編映画を見ることはない。しかし、視覚的要素だけが映画を“観る”方法なのだろうか。映画は加藤の監督のもと、見えるスタッフが足掻きながら彼の思い描く世界をさまざまな方法で映像化し、観客の前に差し出される。それらが彼の頭の中にある“イメージ”をそのまま映しているか、視覚的に確かめる術はない。しかし彼は、視覚を使わずとも、誰よりもその映画について知る者でありうるのではないだろうか。
視覚は、時にその奥へと思考を巡らせることを邪魔する。見えていることだけが世界を掴む方法ではないのに、視覚があるとつい見えるものに惑わされてしまう。観客は、私たちと共に見える世界と見えない世界を行き来しながら、その間にあるものを手繰り寄せていくことになる。それが、映画『ナイトクルージング』である。